私たちが普段当たり前のように食べているお米。
でもいったいいつ頃から食べはじめたのでしょうか。
目次
米(こめ)の歴史
1962年をピークに食べる量が減り続けているお米ですが、今のところ主食の座は明け渡してはいませんし、まだまだお米は日本人にとってなくてはならないものと考えていらっしゃる方は多いと思います。
そのお米ですが、日本にはいつ頃どのようにして伝わったのでしょうか?
諸説あるようですが、今回は一般的に有力であるといわれている説をご紹介します。
稲作の稲とは
稲作(いなさく)とは文字通り稲(いね)を栽培することですね。
この稲の果実が米です。
イネは一年生作物で栽培種は2種あります。
イネ科オリザ属の学名オリザ・サチバ(サティバ)(Oryza sativa)と
オリザ・グラベリマ(Oryza glaberrima)です。
グラベリマ種は西アフリカが原産で、現在アフリカの一部でわずかに栽培されているようです。
一方の、サチバ(サティバ)種には日本のお米が含まれて皆さんがしっている米粒の日本型、細長い粒のインド型、大粒のジャワ型の3つの亜種があります。
また、日本のようなお米をジャポニカ、タイ米のような長い粒をインディカと植物分類学上サチバ(サティバ)種の亜種とされている2つのグループに分けられています。ちなみにこの2つのグループに分けたのは日本人の学者です。
そして、このサチバ(サティバ)種は現在日本をはじめ世界各国で栽培されています。
稲作のはじまりと伝来
イネが初めて栽培されるようになったのは、インドのアッサム地方から中国の雲南省(うんなんしょう)にかけての山間部と考えられています。
ここから、インド、南アジアへと伝わりさらに東南アジアや東アジアへも伝わったと考えられます。
中国ではすでに1万年前ごろの遺跡から、米などが発見されています。
日本に伝わったのは、約3000年前の縄文時代後期といわれています。
伝わった経路は諸説あって、中国江南(こうなん)地方から海路で朝鮮半島に伝わり、そこから北九州へ伝わったという説。
中国から沖縄の宮古島を経由して奄美の島々を北上、九州南部に渡来した説。
中国江南(こうなん)地方辺りから、直接、北九州方面に伝わったという説がありますがどうやらこの一番最後の説が有力だそうです。
稲作の日本国内での広がり
縄文時代は、狩りや魚を獲ったり木の実を採って生活していました。
水田稲作が本格的に始まったのは弥生時代のようですね。この辺りから農耕生活へと変わっていったようです。
米以外にも、身近にあるものをいろいろ食べていたようですよ。
穀類では、お米をはじめ、大豆、そば、粟、ひえ、小豆、緑豆など、
木の実は、とちの実、くり、くるみ、しいなど
野菜は、ごぼう、まくわうり、ゆうがおなど
魚介は、さめ、えい、たい、まいわし、さば、あじなど
野山の動物も、野うさぎ、いのしし、日本鹿、たぬきなどです。
弥生時代前期中ごろには北九州から近畿、東海地方
弥生時代中期には、北海道を除く日本列島のかなりの範囲にわたり広まったようです。
稲作がここまで広まり定着したのは、
温帯ジャポニカと呼ぶ品種が日本の風土気候に合っていたからです。
田植えの時期が雨に恵まれたいた。
イネが生育する夏は日射量が多く気温があがるから。
稲穂が実る時期の空気が朝夕冷涼で乾燥しているから。
そして何より、毎年同じ田んぼで作れるので国土の狭い日本には最適だったようです。
どうですか、このようにお米は日本にやってきて現在も私たちの主食として食卓にでています。
現在は、このような歴史とされていますが、新たな遺跡などが発掘されるとまた変わるかもしれませんね。
どちらにしても、大昔からお米は世界中で食べ続けてこられたんですね。
そして、未来も。
公益社団法人米穀安定供給確保支援機構冊子より一部抜粋
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